関西ソニョシデ学園

過去に生きるK-Popのブログ

ミニそみょ26

○破壊された男


映画『破壊された男』を観た。
観たいのはただ一点キム・ミョンミンの演技だから、その点では大満足。
やっぱり上手いなぁ。
でもチェ・ミンシクとは違って、狂気をはらむよりあくまで理性側に身を置くキャラクター。悪役は似合わないと思った。今回はギリギリの線かな。


敬虔な牧師の5歳になる娘が誘拐される。
金を用意し交渉の場に臨むも、牧師の妻による警察通報が犯人にばれ、娘はそのまま連れ去られる。
あれほど信じた神が何の救いも与えてくれない。娘は殺されたと思い、神を捨てて牧師をやめる男。
しかし、その8年後、犯人からの一本の電話が再び彼の人生を変える。
「娘は生きている」
娘と失った自分を取り戻すため、男の戦いが始まった。


それにしても韓国の犯罪映画は、なぜいつもこうまで薄汚く、こうまで主人公を追い詰めるのか。
それはやはり”怒り”であろう。
まったく身に覚えのないことで痛い目に遭う、被害に遭うのはたいてい抵抗力のない女子供だ、一方的に悪いのはお前だと言われる、警察なんか当てにならない、相手は人を人と思わない病気の殺人鬼だ…なんかこういう話がやたら多い。


どうやら、これが韓国人の世界観なのは間違いない。
とにかく相手の非道さに怒る。自分のふがいなさに怒る。最後の最後までこちらの反撃が空回りする。その果てにあるのは、一種の諦観であり哀しみだ。
この怒りの先にある諦観や哀しみが韓国映画の大きなテーマであり、それを表現するために過剰なまでの身内いじめをするのだと思った。
その目線で観ると、韓国得意のシチュエーション・コメディなども、やはりラストに何らかの哀しみが残り、”元に戻って良かったね、わっはっは”みたいな物語はほとんどないのだった。
反対方向に目を向けるとハリウッド映画などを観る限り、あっちの国民は世界にも己れにも”怒り”なんて持ってないんだろうなぁ、と思う。
さて、わが島国はどうだろう?




○未踏の世界


図書館で「リーマン予想は解決するのか? 〜絶対数学の戦略(黒川信重小島寛之著)」を借りてきた。
数学の最前線を対談形式でわかりやすく解説した本である。
この中で国内有数の数論学者黒田信重教授が
フェルマー予想楕円曲線を使うことで解けた(証明された)のだが、もともと楕円曲線とは何の関係もない方程式なので、なんで楕円曲線で解けたのかよくわからない」
とおっしゃっていたのが印象的。
もちろんその通りなのは誰でも知っているし、だからこそ数学には我々がまだ知らない下部構造がたくさんあるのだろうと考えている訳だ。
それを日本で一番詳しいであろうお人が「よくわからない」と言い切ったのは愉快だった。


知れば知るほど、もっともっと山のように知らないことが出てくる。これが科学の面白さであろう。
北風小僧が上州の山の中がすべてと思って世間を知った気になっていたが、山から下りてみると八州があり、江戸があり、さらに日本全体があり、その日本が虫のようにしか見えない世界と言うものが広がっていた訳だ。
未知の部分が増えると言うことは、世界認識が広がることに他ならない。


同じことは最新宇宙論にもいえる。
我々が地球に住んでいて、その地球が丸い天体で、太陽を回る太陽系を構成していて、太陽系は銀河系にあるひとつの恒星系に過ぎない、ことくらいは日本で義務教育を受けたものなら皆知っている。
だがつい100年前までそれすら判ってなかったのだ。
太陽系は知られていたが、宇宙は無数の太陽系がプカプカ浮かぶ平坦な空間だと思われていた。
が、ハッブルによって我々が銀河系という星団の中にあり、その外には似たような銀河が無数に浮かんでいることが判った。
さらにその銀河で満たされた宇宙は膨張している…逆に言うと、遠い過去に宇宙は一点に凝縮されていて何らかのきっかけで膨張を始めた(ビッグバン)が知られるようになった。
現在では宇宙の年齢は137億年前であり、はるか200億光年も向こうの宇宙をハッブル宇宙望遠鏡などで観ることが出来る。
それでなんとなく宇宙の姿が判ったような気になっていたが、見えれば見えるほど宇宙の姿は「?」なのだった。
最新の研究では
・宇宙は我々の観測限界(光速による物理的限界)の遙か外まで広がっていて、未来永劫見えるのはほんの一部にしか過ぎない。
・宇宙空間の多くの場所を暗黒物質という未知の物質が占めている。
・さらに多くの空間にダークエネルギーという反重力を持ったエネルギーが満ちている。
・宇宙の構成物質(エネルギー)からすると、これまで我々が宇宙と思って見ていたのはわずか数%にしか過ぎない。
ダークエネルギーの斥力によって宇宙の膨張は加速度的に増しており(観測によって裏付けられている)、将来膨張速度が光速を越えると、宇宙がばらばらになる。
・宇宙は多次元であり、また平行宇宙も無数に存在する。
など、20年前には考えられない結果を次々と出してきているである。
ハッブル望遠鏡以来、我々は多くの優秀な観測手段を得て、これまでになかった宇宙像を目撃することになった。
いわば上州にすむ北風小僧が気球で真上にポンと上がったようなものだ。上がれば上がるほど、関東が全体が見え、日本海も中国大陸も太平洋も、終いには地球が丸く見えてくるだろう。
だがなぜ地球が丸いのか、地表にはどんな生き物が住み、どんな歴史があるのか、それは気球からは判らないのだ。
見えれば見えるほど判らないことが増える世界。我々はそんな世界に生きている。


同じことは数学にも言えて、見えたと思った瞬間、広大な未知の分野が出現するのだ。
特に数学の場合は平坦な土地ではなく、所々の切り立った頂は見えるが足下は霧の中という状況にある。
物理は広大な荒野を一歩ずつ踏破する旅だが、数学は広い太平洋に浮かんだ島々を小さなボートで巡る旅と言い換えることも出来る。そうしながら、海面下の地形を探ろうとしている。


19世紀には物理も数学も踏破された世界だと思われていた。
「あともう少しで我々は世界のすべてを知る」と大まじめに語った学者もいたのだ。
だが、そのもう少しを研究した結果、我々は未踏の荒野を発見することになった。
それから100年以上がたって、我々は再び大きな頂を越えた。この先には長きに渡って人類を悩ませる謎が茫漠と広がっている。
その謎が解けるまで、私は生きていないだろう。
数学や宇宙の謎が知りたい。そう思って生きているのに、一生解けない謎を提示されたのである。
だが、世界のすべてが判ったと思うのと、謎を謎として死んでいくのと、どっちが幸せであろうか?
大いなる謎に挑戦できる我が子や孫たちを羨ましく思いつつ、これが未来永劫繰り返されるとすれば、それは幸せなことではなかろうか?
宇宙や真理が人類においそれと尻尾を掴ませないことを願うのみだ。


テヨン「いつまでもアホな日記書いとらんと、サッサと寝れや」
わし「はーい(ぱたん)」